「斃れてのち元まる」 その2

鶴見和子著 「遺言」を読み進める。

曼荼羅というものは、ひとつの空間に複数のものが存在する、そのことを曼荼羅という。もしもひとつの空間に単一のものしか存在していなかったら、それ は曼荼羅ではない。同じでしょう。生物の種類が多いほど地球は安泰である。文明は安泰であるということと、複数の思想、価値観、考え方、生き方、なんでも いいんです。私の言葉でいうと、異なるものが異なるままに共に生きる道を探求する、それが曼荼羅の思想だと思うんです。
(鶴見和子著 「遺言」 より・70pp)

自然界にも、文明世界にも、人間社会にも共通する、曼荼羅の思想・・・。

核の周りを動く電子の軌跡のような線とそこにクロスする直線。熊楠は、そのすべての現象が一ヵ所に集まることはないが、いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両面からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることのできる点「萃点(すいてん)」が存在すると考えた。
(鶴見和子著 「遺言」 より・103pp)

まだ見つけられていないけれど、とても気になる「萃点」。日々関わる多元・多層な生活・社会を、針の糸を通すような小さな点でも、それを串刺しにして見通すことができるとしたら、どんなにか穏やかだろう、と思う。これらの文章を読んでいて、「分節化」という言葉を思い出す。

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