加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を読了。
日本人が戦争を「選んだ」んだっけ!?、と、そのタイトルに惹かれて手にとった。
戦前、地政学、安全保障的な観点から戦いを次々と拡大していき、他国の資源を奪うことを目指した。
子どもの頃に習った日本のあり様は、資源に乏しい日本は海外から原材料を輸入し、製品へと加工してこそ。付加価値のついた製品を輸出することで経済を成り立させている、ということだった。だから、それを支える科学技術力が生命線だ、と。
戦前には、まったく異なる文脈で将来の国のあり様の議論が進められている。そもそも「資源に乏しい日本」という前提がない。中国やアジアの国のことを対等に扱わない、すこしそのことに罪悪感を感じつつも、その民のことを置き去りにし、相手の覚悟にはるかに及ばない日和見な感じもする覚悟だけで大事件をおこしていった(ように見える)ことに、改めて驚かされた。
時代時代の社会の発展段階で、欠けているピースを埋めながら、それを戦争を正当化する論理にも活用しつつ、というのが、うまいというか、ずるいというか、今だからこそ、そう見えるのかしら、、
また、負けるとわかって突入した「太平洋戦争」は、「満州事変や日中戦争」の閉塞感ただよう社会において「明るい戦争」と多くの人に捉えられていた、、戦争を続けるための「資源」だけでなく、官僚のポストづくりもその併合の際には意図されていた、などなど、、目から鱗がたくさんあって、今さらながら、知らなかったことが多すぎて、、知っておかなければならないことだらけでした。