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感覚と間隔、、

文化による感覚のちがい、そこから生まれる空間がちがう体験をうむ。ものの間の距離ではなく、マ(間隔)を知覚することに長けた日本人。

異なる文化に属する人々は、ちがう言語をしゃべったりするだけでなく、おそらくもっと重要なことには、ちがう感覚世界に住んでいる。感覚情報を選択的にふるいわける結果、あることは受け入れられ、それ以外のことは濾しすてられる。そのため、ある文化の型の感覚的スクリーンを通して受けとられた体験は、他の文化の型のスクリーンを通して受けとられた体験とはまったくちがうのである。人々が作りだす建築とか都市とかいう環境は、このフィルター・スクリーニング過程の表現である。事実、このように人間の手で変更された環境をみれば、感覚の使いかたがいかに異なっているか知ることができる。したがって、体験というものは、依存すべき照合点と考えることができない。それは人間によって型どられた舞台装置の中で生じるものだからである。
エドワード・ホール  日高敏隆 佐藤信行 共訳『かくれた次元』みすず書房、1970

西洋人が空間について考えたり語ったりするとき、彼らはものの間の距離を念頭においている。西洋では、ものの配置を知覚し、それに反応するように、そして空間は「空虚」だと考えるように教えられている。このことの意味は、日本人と比較したとき明らかになる。日本人は空間に意味を与えるように ー 空間の形と配置を知覚するように ー 訓練されている。このことを表わすことばがマ(間)である。すなわち間隔、が日本人のあらゆる空間経験における基礎的な建築上の区切りなのである。これは生花において働いているのみでなく、他のあらゆる空間の配置でもかくれた配慮となって作用している。日本人はマを扱い配置するのにきわめて熟達しており、欧米人に感嘆と、ときには畏怖をさえひきおこさせるのである。エドワード・ホール  日高敏隆 佐藤信行 共訳『かくれた次元』みすず書房、1970

(途中の『依存すべき照合点』の意味がわからない、、)

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